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大学の語源(その49)「メリケン波止場」の語源! 童謡や流行歌が教えてくれる・・・
 
 昨夜、『昭和天皇実録』の第二(大正三年〜九年)を読んでいたら、

 大正6年の7月、東宮殿下(皇太子裕仁)がおめし艦「香取」に乗り、
 福井県の敦賀から山陰をめぐり、関門海峡を通って瀬戸内海に入り、
 12日(木)、神戸港に上陸したくだりをみつけた。そこに、

 「神戸港米利堅波止場(メリケンハトバ)にご上陸になり、
 8時、神戸駅をご発車」

 という記事があった。

 前回の「大学の語源(その48)」では、
 「そう言えば、日本の横浜にも、「メリケン波止場」というアメリカ軍
 の波止場があり、流行歌でもよく歌われたような記憶がある」

 と書いているため、気になった。

 まず、『広辞苑』(岩波書店)で調べてみた。

 「アメリカンの略。〜メリケン粉などの言葉がある」

 と出ていたが、神戸の由来なのか、横浜の由来なのか、記載がない。

 『世界百科大事典』(平凡社)には載ってなく、「ウィキペディア」を検索。

 「明治元年(1868年)明治政府が第三波止場として開設。近くに米国
 領事館があったことから、「メリケン波止場」と呼ばれるようになった。
 (明治27年に横浜港に鉄製の大桟橋が完成したことから、)
 明治末期から1970年ごろまで「メリケン波止場」と呼ばれた」

 これを補足してみよう。やはり、「歴史的な観点」が抜けているような気がする。

  「メリケン波止場」の起源発祥は、神戸港で、第三波止場の近くにアメリカ
   領事館があったことによるというのは、間違いないことだろう・・・

 ◆,靴し、明治末から横浜の「大桟橋」も「メリケン波止場」と呼ばれる
   ようになった。それは、アメリカのサンフランシスコ・横浜・上海・香港を
   結ぶアメリカ定期航路が開かれ、
   アメリカ汽船や貨物船が多く寄港したからではないだろうか? 

  もしくは、「大桟橋」は鋼鉄製であったことから、輸入元のアメリカをとり、
  「メリケン波止場」と呼ぶようになったとも考えられる。
  山手線恵比寿駅と目黒駅間に線路の上を通る跨線橋があるが、
  その恵比寿駅側の橋の近くに住んでいた小生は「アメリカ橋」と呼んでいた。
  中目黒あたりに駐屯する日本陸軍の戦車が山手線内に入る時、
  この橋を渡ったという。それまでの木造の橋では、戦車の重量に耐え切れず、
  橋が戦車ごと落下する危険性があったからで、当時そうした鉄骨を建造できない
  日本は、やむを得ず、アメリカに発注したということを、橋のたもとに
  はめ込められたプレートで読んだような記憶が残っている。

  大正11年(1922年)に発酵された童謡「赤い靴」の歌詞はこうだ。

  「♭ 赤い靴はいてた 女の子〜
     異人さんにつれられて いっちゃった〜
     横浜の波止場から 船に乗って〜
     異人さんにつれられて いっちゃった〜 ♯」
   
      
  ここでは、「横浜の波止場」と歌われている。
   横浜が「メリケン波止場」という一般的な、大衆がよく知っている
   呼び名になったのは、もっと後のことだったのである。
   というのは、翌大正12年に横浜は関東大震災に襲われ、港の破壊は
   最悪で、横浜の多くの貿易商や華僑が神戸へ移住したという。
  
  そして、昭和12年(1937年)に新発売され、大流行した
   渋谷のり子が歌う「別れのブルース」(コロンビア)・・・

  「♭ 窓を開ければ、みなとが見える〜 
     メリケン波止場の灯が見える〜
     夜風、潮風、恋風のせて〜
     今日の出船は、どこへ行く〜 ♯」

  この昭和12年7月7日、盧溝橋で発せられた一発の銃声から日本は中国と
  の泥沼の戦争に突入し、やがては、アメリカやイギリスとの太平洋戦争を
  開始するのであるが、この「別れのブルース」は戦争へと駆り立てられる
  若き将校・兵士たち、引き離された家族や恋人たちの「遣る瀬ない気持ち」
  をうたい上げた名曲であり、当時、当局による監視も厳しかったという。
  しかし、「アメリカ波止場」と明確に歌っていない以上、当局も手を出せ
  なかったというような想像ができる。この「メリケン波止場」が神戸だった
  のか、横浜だったのかはよくわからない。しかし、アメリカのコロンビア・ 
  レコードと提携した日本蓄音機商会は川崎に本社を持っていたから、横浜の
  「メリケン波止場」と考えるのが妥当だろう・・・


  この歌は、戦後もよく歌われた。それは、横浜の山下公園近くにある
  「ホテルニューグランド」が占領軍により接収され、アメリカ軍の拠点になった
  からである。昭和20年8月30日厚木空軍基地に降り立ったマッカーサーは
  まずこのホテルニューグランドに投宿し、その後皇居前に進出している。
  まさに、山下公園から大桟橋にかけては、アメリカ軍やその家族のための
  「メリケン波止場」になったのであった。
  
  つまり、「別れのブルース」は、敗戦国の国民にとって、父や夫、子や
   恋人の帰国をあてどなく待つ「待ちわびのブルース」になったということだ。

  そして、アメリカ軍を中心とする連合軍司令部から山下公園が全面的接収解除
   になったのは、1959年(昭和34年)という。
   しばらくは「メリケン波止場」と呼ばれ、その後、1970年(昭和45年)
   ごろまでそう呼び続けられたことがわかる。
  
  
    

    

 
  

 

 

 
author:ぷるの飼い主, category:U-Uiversityの語源, 10:25
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