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大学の語源(その56)、NHK「5月26日のブラタモリ・なぜ萩は世界遺産に?」で感じた歴史解釈の不確かさ・・・
 
 今日のNHK「ブラタモリ」は、山口県の萩市が舞台だった・・・

 一回行ったことがあり、また来てみたいと思わせた想い出の地である。

 ここが「なぜ世界遺産になったのか?」。

 番組が言うには、

  町の中心が湿地帯で、ここに藩校「明倫館」ほか市庁舎や図書館が置かれた。

  町には、ふんだんに「安山岩」という丈夫な石が使われた(町は火山帯の上)。

  士族たちはほとんど町から出て行き、屋敷跡は「夏ミカン畑」となった。

  「夏ミカン」は主要産業となり、町の道路や溝や石壁がそのまま保存された。

 以上が、「なぜ世界遺産になったのか?」の答えであった。

 しかし、,寮睫世涼罎如◆崗襪砲聾庁や公共施設が造られた」という
 間違った「歴史解釈」をしていた。

 明治17年の「諸兵配備表」で「山口県の陸軍はどうなっているかと言うと、

 ・第五軍管の第九旅団は、第11連隊・第12連隊とも広島城に置かれた。

 ・同じ第五軍管の第十旅団は、第12連隊が丸亀城、第22連隊が松山城に。

 明治40年の「陸軍歩兵の配置表」では、

 ・第五師団の第九旅団は、第11連隊が広島城、第22連隊が松山城に。

 ・同師団第二十一旅団は、第42連隊が山口城、第71連隊が広島城に。

 つまり、山口の連隊は「山口」に置かれ、「萩」には置かれなかったが、
 陸軍の師団・旅団・連隊の司令部や部隊は、全国の「お城」に置かれたのだ!

 これは、明治6年の「存城廃城令」(廃城令)により、全国の名城のうち
 「近代的軍隊」の司令部を置ける風格と敷地の広大さ、堅固さと交通便利性の
 あるものは、まず、「陸軍」の所有となり、残りのあまり重要でないと認定
 されたものは、「大蔵省」の所有となったのである。

 全国の名城の多くは、戦前は「軍隊」が、
 戦後になって「県庁や公共施設」が置かれたのだ!

 調べてみないといけないが、陸軍は「長州藩が幕末に藩庁を萩から移した山口
 (市)のお城」を選択し、日露戦争にそなえ、歩兵第42連隊を置いたのである。

 このために、萩は残された! ということなのだ!

 萩のお城は、あまりに海に近いため、帝国海軍の砲撃を受けやすく、
 敷地の広大さに欠け、第五師団の司令部のある広島城にも交通の便が悪い!
 そう、判断されたのではないだろうか?!

 では、なぜ、萩はそのまま士族の屋敷が残され、それが「夏ミカン畑」になった
 のだろうか?

 NHKは、「萩から4人の総理大臣が出た」と放送していた。

 伊藤博文、山県有朋、桂太郎、田中義一、4人の首相である。

 しかし、大事なことを抜かしていた!

 このうち、伊藤博文だけが文官出身で、残り3人が「陸軍大将」の出だった
 ということである。

 つまり、「萩は、長州藩閥の主流をなす長州軍閥の「ふ・る・さ・と」だった」
 のである。

 陸軍大将が3人出たということは、陸軍中将はかなり多く出た!
 少将や大佐などはもっともっとたくさん出た! ということなのだ。

 師団や連隊のある各地の名城や戦地を転々とした軍人ばかりでなく、
 政治家や実業家なども多数輩出したに違いない。
 彼らの多くは東京などに大きな屋敷を構えた。
 しかし、名誉のために「ふ・る・さ・との屋敷」を手放さなかった!

 「ふ・る・さ・との屋敷」は古くなれば取り壊されるが、敷地は売却せずに
 「夏ミカン畑」にしたのである。

 多分、歩兵42連隊のある山口に持って行けば、連隊の主計部が購入してくれた
 ものと想像する。余れば、広島の師団に持って行けばいいのである。

 真夏の炎天下の行軍や訓練で、兵士たちはへとへとになる。

 その時、美味しく、みずみずしい「夏ミカン」は、大事な「活力源」となり、
 「ビタミンCの補給源」となったのである。

 「ふ・る・さ・との屋敷」の溝は「水」を得るため、石垣は「激しい風雨」
 を防ぐためにも、大事に残され、壊れれば補修された」のである。

 萩が世界遺産に登録されたことは、嬉しいことである!

 しかし、「歴史解釈が不確か」だと、後世に悔いが残る!

 NHKは、先週の「天城越え」でも「歴史観の不在」を犯してしまった。

 本当に気をつけなくてはいけないと思う!

 

 

 

 

 

 
author:ぷるの飼い主, category:U‐University(大学の語源事典), 21:25
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大学の語源(その55)、NHK「5月19日のブラタモリ・天城越え」で感じた「歴史観不在の旅」・・・
 
 今日2018年5月19日放映の「ブラタモリ・天城越え」・・・

 「ブラタモリ」、僕は大好きで、毎週楽しみにしている!

 特に、タモリさんの「地質学・岩石学・地域学」の造詣と洞察力はものすごいと、
 驚嘆、脱帽している・・・

 しかし、今日の「ブラタモリ」には「歴史観不在」を感じ、残念でならない。

 番組一番の見せどころは、それまで天下の難所であった天城峠の下をくぐる
 「旧天城トンネル」(天城山隧道)貫通の秘話であった。

 このトンネルは、川端康成の『伊豆の踊子』や松本清張の『天城越え』にも
 登場する有名なトンネルである。

 完成は明治38年、工事期間は4年。

 ここで、僕は「日露戦争」と関係があるな、と直感した。

 しかし、NHKは、「日露戦争」の「に」の字も出さずに、「表玄関と浦玄関」
 の話で終始させてしまった。

 「表玄関」である「トンネル北側」は見栄えもよく、長持ちして、風化しない
 「玄武岩」を使っているが、「裏玄関」の「トンネル南側」は、付近から採れる
 風化すると、ぼろぼろにかけて来る「緑色凝灰岩」が使われている。

 トンネルを通して、東海道方面に出やすいように願った「下田地域」の住民は、
 工事費の60%を払わされたため、自分たち側の「トンネル南側」を安く、
 天城峠付近で採掘される「緑色凝灰岩」で仕上げた、という落しどころに
 なっていた。

 そういう「下田地域」の住民の心根は、よくわかる。

 しかし、ハリス米国公使も駕籠で越えた天城峠であるが、江戸時代、幕府は、
 下田に「下田奉行所」を置いて、沖合いを通過する千石船を監視していた。

 「入り鉄砲と出おんな」という幕府が諸大名を取り締まった交通違反法令は、
 箱根の関所では有名であるが、実は、下田奉行所も、千石船の船底に「鉄砲」
 のたぐいが隠され、江戸に運びこまれることを非常に警戒したのである。
 
 1853年に来日したロシアのプチャーチンは最初長崎に来て、下田に回航し
 てほしいと、長崎奉行所により要請された。

 しかし、米国のペリー提督は、下田を飛ばして、三浦半島の浦賀に来航した。

 驚いた幕府は翌年「日米和親条約」を締結したが、この時の開港場は下田・
 長崎であった。ハリス公使は1858年の「日米修好通商条約」まで、
 ここに滞在した。つまり、幕府は、従来の「下田で江戸湾(東京湾)に入る 
 諸船を監視する」という基本原則を守ったのである。

 以上のことから、下田は、江戸幕府の天領(直轄支配地)であり、色んな
 面で優遇されていたはずである。しかし、1859年に開港場と奉行所が
 閉鎖されると、急激に「陸の孤島」と化し、住民の不便さが増して行った。

 そこから、下田は、もう一度復活する。

 その復活を成し遂げた「資源」とは、「伊豆石」という頑丈で風化しない
 「玄武岩」であった。

 この石は、江戸城築城の時にも、海路、江戸湾にまで運搬されている。

 『世界百科大事典』(平凡社)
 「下田(市)の周辺は、江戸城の築城に用いられた伊豆石の産地で、
 幕末には品川の台場に使われるなど大正期まで下田の主要産業であった」

 この旧天城トンネルが完成したのは、明治38年で、
 工事期間は4年であったという。

 計画期間を入れると、ロシアが旅順・大連を租借した時期とぴったり
 重なって来る。租借は明治31年だからである。このころ、

 日本は、脅威のロシア海軍に対する防衛のため、東京湾に「海堡」を
 築いていた。

 『日本の城』(理工学社)
 「明治政府は東京湾の浦賀水道に人工島を三基築いて湾内の東京・横浜・
 横須賀等を防御する要塞をつくった。富津岬から水走沖合いの間の三基の
 要塞のうち中央が第二海保で、明治22年起工、大正3年に竣工、
 世界最大の海堡であった」

 つまり、日露戦争の日本海海戦まで、「伊豆石」は、海堡や海岸砲台に
 優先して使われていて、下田地域の住民たちは、それに対する遠慮もあり、
 自分側の「トンネル南側」には緑色凝灰岩を使ったようなのだ。

 旧天城トンネルは、もちろん住民たちのためでもあった(海が荒れている時)
 が、軍事の目的もあったに違いない。

 日本海軍より、ロシア海軍の方がはるかに優勢であり、もし戦争となれば、
 陸の孤島下田は占領までは行かないだろうが、封鎖される危険性はある。
 その時、静岡の歩兵第34連隊の陸路による出動は必須である!
 というような見方はされたはずである。

 そのためには、トンネルが必要だということから、
 明治34年に起工された・・・

 日ごろから、陸軍や海軍にお世話になっている産業を持つ下田地域としては、
 工事費の60%を負担することになっても、文句が言えなかったのである。

 NHKは、以上のような話はせずに、ブラタモリ流の「地質学・岩石学」を
 貫き通し、最後は誰もが感動する「表玄関・裏玄関の心根学」に落としこんだ。

 巧妙と言えば、巧妙であるが、「歴史観不在」は、まずいと思う・・・

 

 

 

 
 

 
author:ぷるの飼い主, category:U‐University(大学の語源事典), 22:17
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大学の語源(その54)、頑張れ、新漢字広告シリーズ! でも、「漢字の会意」によるつくり方と「和語の組み合わせ」によるつくり方は違うんだよ・・・
 
 平成30年5月9日(水)の朝日新聞朝刊一面の「小枠広告」から・・・

 リンテック(株)という会社が、「目(モク・め))」を辺(ヘン)とし、
 
 「立(リュウ・たつ)」という漢字を旁(つくり)とした、

 「目+立」という新漢字をつくる広告シリーズを出していた。

 どうも、「めだつ」と読ませるらしい・・・

 というのは、この新漢字の下に、一行、

 「アイキャッチレベルで 商品の存在感をアップ」

 というボディコピーが添えられていたからである。しかし、

 前回の「夢(ム・ゆめ)」の「夕(ユウ・目の変化で暗いを意味する)」
 を「創(ソウ・つくる)」にした新漢字に感じるほどのインパクトは、
 残念ながら感じなかった。

 それは、「目(モク・め)」という漢字そのものが、「目立つ」漢字
 だからなのである。

 「目(モク・め)」は象形文字の代表的な漢字のひとつと言われている。

 象形文字は、「目(モク)の横一」と書いていた。

 それが立てられて「目(モク)」という漢字になったのであり、
 「目(モク・め)」そのものに「目立つ」という意味があったのである。

 だから、「目+立」とう新漢字は、「W(ダブル)目立つ」となってしまう。

 さらに、「サンズイ+目(モク)」で会意させた「泪(ルイ」も、

 「サンズイ+立(リュウ)」で会意させた「泣」(キュウ)も、

 「泣く」を意味する漢字となる。

 「目(め)」から出る「水(みず)」は「なみだ」だから当然。

 「目」と「立」を合せると、「号泣」となるような感じになってしまう・・・

 新漢字の「目+立」(めだつ)は、和語の「め」と「たつ」の組み合わせ
 による熟語であり、漢字の「会意」によるつくり方は違うのである。

 漢字を改変して「新漢字」をつくるのだから、「漢字のルール」に
 従う必要はあるかもしれないと、ちょっと気になる・・・

 僕が「目立つ」という新漢字をつくるとしたら、

 「目+目」としたかった、なー!

 ・「一目(イチモク)を置かせる」

 ・「客の「目」が集まって、衆目一致するところとなる」

 さらに面白い「新漢字広告シリーズ」を、大いに期待したい!


 

 



 

 
author:ぷるの飼い主, category:U‐University(大学の語源事典), 13:31
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大学の語源(その53)、「夢(ゆめ・ム)」という漢字の語源は「家の中の寝床+目が2つ」。つまり、「見えにくいものをよく見る」という原義だった!
 
 平成30年4月2日(月)の朝日新聞朝刊一面の「小枠広告」から・・・

 リンテック(株)という会社が、「夢(ゆめ・ム)」という漢字の中の
 
 「夕(ユウ)」という部首を「創(つくる・ソウ)」にかえる、

 面白い広告を出していた。

 会社の企業スローガンが

 「くっつく技術で 夢ををつないで 未来を創る」

 ということなので、「夢」と「創」を合体させて、新漢字を創作したらしい。

 では、消されてしまった「夕」は何だったんだろう?

 実は、「夕」という字は「目」だったのである。

 現代、「夢」という字を書く時、こう書く。

 「草かんむり」→「目の横向き」→「わかんむり」→「夕」

 しかし、むかしは、こう書いていたらしい。

 「曹(ソウ)の日のない上側」→「目の横向き」→「わかんむり」→「目」

 この字に、さらに「家を表すうかんむり」や「寝床を表す部首」がついていた。

 すなわち、むかしは「夢(ゆめ」という「睡眠中に見る心的現象」ではなく、

 「家の中の寝床という暗いところで見ようとするが、見えにくいので、

 目を凝らしてよく見ようとすること」を意味していたらしい。

 その「家のうかんむり」や「寝床を表す部首」を取って、漢字を簡略化した時、

 原義のある「暗いところ」という意味がなくなるので、「下の縦向きの目」を

 「夕」という字に変えた。
 
 下の「目」を「夕」に変えても、「横向きの目=もっと古いの目の象形」が

 あるからいい。それよりも、

 「夕」は「黄昏(たそがれ=誰(た)そ彼(か)れ)」という意味で、

 「誰なのか、何なのか、よく見えない時間帯」を指すから、

 それを用いた方がいいと思ったのではないだろうか?!

 (ここらへんには、学問的というより、やや空想的な記述が含まれている)

 そして、原義も変化し、現代風の「睡眠中に見る心的現象」の「ゆめ」となった。

 このリンテック(株)の新漢字「夢(ゆめ)+創(ソウ・つくる)」は、

 社員全員が夜見る「夢」ではなく、昼間ガンガン働き、バンバン空想しながら、

 「こんなことをしたい! あんなものを創りたい!」と夢想すること!

 すなわち、「現実にはよく見えてないものを、コツコツとみんなで形あるものにし、

 未来に実を結ぶようにつないで行こうではないか!」というような意味あいが

 こめられている、ということになる。

 「夢」の原義をとりもどすことこそ、「夢をかなえる」ことなのだ!

 

 

 
author:ぷるの飼い主, category:U‐University(大学の語源事典), 13:19
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大学の語源(その52)、森友学園決裁文書「改竄(カイザン)」の語源は「穴の中の鼠(ねずみ)がこそこそと書き換える」!
 
 平成30年3月13日づけの「朝日朝刊」は、

 一面の「横組み、黒ベタ白抜き大見出し」に、「財務省 公文書改ざん」

 「縦組み、第一見出し」に、「森友「特例」経緯 削除」と掲げていた。

 ただ、12日のテレビの報道は、ほとんど「決済文書の書き換え」と報じていた。

 財務省が12日「森友学園への国有地払い下げに関する決済文書の書き換え」を
 認める報告書を国会に提出したため、そのまま「書き換え」としたようである。

 では、「書き換え」=「改竄(カイザン)」なのか?

 それとも、「書き換え」≠「改竄(カイザン)」なのだろうか?

 昭和30年の第一版第一刷を発行した『広辞苑』では、「改竄(カイザン)」は、

 「(「竄」は改めかえる意)字句などを改めなおすこと」

 となっていて、「改竄(カイザン)」の「改(カイ)」も「竄(ザン)」も
 同じ意味で、「改めなおす」と定義されている。

 つまり、『広辞苑』(第一版)には「悪い方向に改める」という意味はない!

 この解釈は『漢語林』(大修館書店・昭和62年発行)などの

 漢和辞典にも踏襲されていて、

 「改竄(カイザン):文字・語句を改めなおすこと。竄は、改め変える意」

 となっている。

 ところが、『日本語大辞典』(講談社・平成2年第一刷)では、

 「悪用しようとして、書類や証書の文字を直すこと」

 と、明らかに「悪い方向に改める」と変更されている。これは、

 小学生から一般人まで広く使われる『新明解国語辞典』(三省堂・同上)の

 「〔「竄」は、文字を改める意〕そこに書いてある文字を、自分に都合の
  いいように書き直すこと。「小切手の改竄」」

 という定義もまた、ほぼ同じ悪い方向への解釈と考えていいようだ。

 つまり、昭和時代の「改竄(カイザン」は「単なる字句の書き換え」という
 意味であったが、

 平成に入ってから、「悪い方向への書き換え」と変化したのである。

 どうしてなのだろうか?

 「改(カイ)」には「改革・改新・改良・改善」という熟語をつくる
 ように、「あらためて、新しくする」という原義があり、別に悪い意味はなく、

 「竄(ザン)」という字と熟語を成すことにより、

 「穴の中の鼠(ねずみ)が(こそこそと=ひそかに)書き換える」

 という意味になるのである。

 「鼠(ねずみ)」には悪い意味はないが、「こそこそと=ひそかに」に

 書き換えることが大きな問題として見なされるようになったのだ!

 『広辞苑』の第二版以降の意味の変化を調べてみる必要があるが、

 昭和のあるころから「小切手の書き換え」、「領収証の書き換え」などの

 「公文書偽造」が横行し始め、

 その時代背景の変化に合わせて、

 「改竄(カイザン」の意味が変化して行ったような気がしてならない!

 そして今日、大学や研究所においても、「他人の論文の剽窃」があったり、

 「実験データの改竄」が頻発するようになると、

 同時に、「役所内の決裁文書などの公文書の書き換え」も

 「こっそりと、ひそかに」行われるようになったということなのである。

 「他山の石」、財務省ばかりでないかもしれない・・・

 

 
 

 
author:ぷるの飼い主, category:U‐University(大学の語源事典), 12:27
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