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NH系の語源(その4)、チコちゃん!「サッカー最初のルールでは、ピッチ内で積極的に手を使うことが許されていたんだ、よ!」
 
 最近、NHKの『チコちゃんにしかられる!』というのを観ている。

 参加するタレントが間違った回答をすると、
 「ボーっと生きてんじゃねーよ!−」と、チコちゃんに叱られる辛口番組。

 なかなか面白いのであるが、ある日の放送のこと、

 「サッカーはなぜ手を使うことが許されないのか?」という質問に対し、

 チコちゃんの正解は、

 「ピッチ内で、手を使う反則をなくすためであった」としていた。

 でも、ね! チコちゃん、

 「サッカー最初のルールでは、ピッチ内で積極的に手を使うことが
  許されていたんだ、よ」!

 嘘だと思ったら、『スポーツ大事典』(大修館書店)を観てごらん!

 サッカーの項P373「フットボール・アソシエーション・ルール
 (1863年)の第8条にこう書いてあるんだ・・・

 「プレイヤーが踵(かかと)でマークをする(芝生を蹴り傷をつける)と
  同時に、フェアキャッチ(手でファンブルすることなくきっちりつかむ)
  を要求すれば(審判にコールすれば)、彼はフリーキックをするために、
  彼の望むこところまで後退(ゴールに対し)してよい。
  相手側チームのプレイヤーは、彼がキックを終えるまで、
  マークを越えて進むことはできない」

 この「フェアキャッチ」のルールは、少々内容が違うんだけど、
 ラグビーやアメリカン・フットボールにも残されていて、
 「サッカー最初のルール(1863年)」が完全にラクビーのルールから
 脱皮していなかったことを意味しているんだ、よ!

 だから、この頃のサッカー選手は、「ピッチ内で空中を飛んでいる
 ボールを手で積極的にフェアキャッチし」、そのマーク地点もしくは
 下がった地点から、フリーキックをしていたんだ!

 チコちゃんに言うんだけど、

 「ボーっと生きてんじゃねーよ!−」

 それにしても、NHKは、語源や歴史認識の誤謬が多いんじゃないか。

 そのため、「語源のブログ」の中に「NH系の語源」という
 サブジャンルを設けることにした!

 乞う、ご期待!

author:ぷるの飼い主, category:NHKの語源, 19:46
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語源のブログ、6月14日放送のNHK「日本人のおなまえっ」で間違えた「野球命名者」中馬庚の出身校・・・
 
 2018年6月14日放送のNHK「日本人のおなまえっ」!

 今日がFIFAワールドカップの開幕日にあたることから、

 「サッカーがサッカーと呼ばれる意外で深い訳」というタイトルで

 サッカーの語源をやっていた。

 「Soccer(サッカー)の「soc(ソック)」は、
 Association(アソシエーション=協会)の「soc(ソシ)」と同じで、
 「仲間」という意味。

 Society(ソサイアティ=社会)にも通じる。

 だから「サッカー」は造語で、「仲間でやるフットボール」という意味が
 隠されている」

 僕がこう書いたのは『スポーツ語源クイズ』(講談社現代新書)P77。

 2002年開催の日韓ワールドカップの年に書いた本で、
 それをそのまま放送していたから、著者としての心境は複雑だった・・・

 「サッカー」については、間違いはなかったが、「野球」については、
 間違いがあった。

 ベースボールに対し、「野原」でやることから「野球」という名を最初に
 つけた中馬庚(ちゅうまかのえ)を「第一高等学校(一高)・
 東京大学教養学部の前身」の出身であるとしたのであるが、

 中馬庚の経歴や東京大学関係の歴史を一覧にすると、こうなる。

 ・明治19年4月、「東京大学予備門」が「第一高等中学校」となる。
 ・明治21年9月、中馬庚、「第一高等中学校」(一中)に入学する。
 ・明治23年11月、インブリー事件後の「一中vs明治学院対抗戦」
  に、中馬庚、二塁手・5番で出場する(『日本野球史』)。
 ・明治26年6月、中馬庚、「一中」を卒業、9月帝国大学に入学する。
 ・明治27年7月、「第一高等中学校」は「第一高等学校」と改称される。

 すなわち、中馬庚は、「一高ベースボール会」ではなく、
 「一中ベースボール会」の所属だったのである!

 『日本野球創成期』という本には、「明治24年・25年の一中時代の
 選手」という写真が載り、「一中」という字を胸につけたユニフォーム姿
 の9名の選手が並んでいる(『日本野球史』より(大和球児著))。

 そして、
 ・明治30年7月、中馬庚が書いた『野球』という本が大阪前川文栄堂出版
 より出版され、「野球」が日本人の中に定着したのである(同上)。

 この時代、学校制度が目まぐるしく改正されたため、NHKの間違いは
 仕方ないことかもしれない。

 しかし、天下のNHKなのだから、もう少し「歴史誤謬の撲滅運動」に
 精を出してもらいたいものである。

 
 
 
author:ぷるの飼い主, category:NHKの語源, 21:36
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大学の語源(その56)、NHK「5月26日のブラタモリ・なぜ萩は世界遺産に?」で感じた歴史解釈の不確かさ・・・
 
 今日のNHK「ブラタモリ」は、山口県の萩市が舞台だった・・・

 一回行ったことがあり、また来てみたいと思わせた想い出の地である。

 ここが「なぜ世界遺産になったのか?」。

 番組が言うには、

  町の中心が湿地帯で、ここに藩校「明倫館」ほか市庁舎や図書館が置かれた。

  町には、ふんだんに「安山岩」という丈夫な石が使われた(町は火山帯の上)。

  士族たちはほとんど町から出て行き、屋敷跡は「夏ミカン畑」となった。

  「夏ミカン」は主要産業となり、町の道路や溝や石壁がそのまま保存された。

 以上が、「なぜ世界遺産になったのか?」の答えであった。

 しかし、,寮睫世涼罎如◆崗襪砲聾庁や公共施設が造られた」という
 間違った「歴史解釈」をしていた。

 明治17年の「諸兵配備表」で「山口県の陸軍はどうなっているかと言うと、

 ・第五軍管の第九旅団は、第11連隊・第12連隊とも広島城に置かれた。

 ・同じ第五軍管の第十旅団は、第12連隊が丸亀城、第22連隊が松山城に。

 明治40年の「陸軍歩兵の配置表」では、

 ・第五師団の第九旅団は、第11連隊が広島城、第22連隊が松山城に。

 ・同師団第二十一旅団は、第42連隊が山口城、第71連隊が広島城に。

 つまり、山口の連隊は「山口」に置かれ、「萩」には置かれなかったが、
 陸軍の師団・旅団・連隊の司令部や部隊は、全国の「お城」に置かれたのだ!

 これは、明治6年の「存城廃城令」(廃城令)により、全国の名城のうち
 「近代的軍隊」の司令部を置ける風格と敷地の広大さ、堅固さと交通便利性の
 あるものは、まず、「陸軍」の所有となり、残りのあまり重要でないと認定
 されたものは、「大蔵省」の所有となったのである。

 全国の名城の多くは、戦前は「軍隊」が、
 戦後になって「県庁や公共施設」が置かれたのだ!

 調べてみないといけないが、陸軍は「長州藩が幕末に藩庁を萩から移した山口
 (市)のお城」を選択し、日露戦争にそなえ、歩兵第42連隊を置いたのである。

 このために、萩は残された! ということなのだ!

 萩のお城は、あまりに海に近いため、帝国海軍の砲撃を受けやすく、
 敷地の広大さに欠け、第五師団の司令部のある広島城にも交通の便が悪い!
 そう、判断されたのではないだろうか?!

 では、なぜ、萩はそのまま士族の屋敷が残され、それが「夏ミカン畑」になった
 のだろうか?

 NHKは、「萩から4人の総理大臣が出た」と放送していた。

 伊藤博文、山県有朋、桂太郎、田中義一、4人の首相である。

 しかし、大事なことを抜かしていた!

 このうち、伊藤博文だけが文官出身で、残り3人が「陸軍大将」の出だった
 ということである。

 つまり、「萩は、長州藩閥の主流をなす長州軍閥の「ふ・る・さ・と」だった」
 のである。

 陸軍大将が3人出たということは、陸軍中将はかなり多く出た!
 少将や大佐などはもっともっとたくさん出た! ということなのだ。

 師団や連隊のある各地の名城や戦地を転々とした軍人ばかりでなく、
 政治家や実業家なども多数輩出したに違いない。
 彼らの多くは東京などに大きな屋敷を構えた。
 しかし、名誉のために「ふ・る・さ・との屋敷」を手放さなかった!

 「ふ・る・さ・との屋敷」は古くなれば取り壊されるが、敷地は売却せずに
 「夏ミカン畑」にしたのである。

 多分、歩兵42連隊のある山口に持って行けば、連隊の主計部が購入してくれた
 ものと想像する。余れば、広島の師団に持って行けばいいのである。

 真夏の炎天下の行軍や訓練で、兵士たちはへとへとになる。

 その時、美味しく、みずみずしい「夏ミカン」は、大事な「活力源」となり、
 「ビタミンCの補給源」となったのである。

 「ふ・る・さ・との屋敷」の溝は「水」を得るため、石垣は「激しい風雨」
 を防ぐためにも、大事に残され、壊れれば補修された」のである。

 萩が世界遺産に登録されたことは、嬉しいことである!

 しかし、「歴史解釈が不確か」だと、後世に悔いが残る!

 NHKは、先週の「天城越え」でも「歴史観の不在」を犯してしまった。

 本当に気をつけなくてはいけないと思う!

 

 

 

 

 

 
author:ぷるの飼い主, category:U‐University(大学の語源事典), 21:25
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大学の語源(その55)、NHK「5月19日のブラタモリ・天城越え」で感じた「歴史観不在の旅」・・・
 
 今日2018年5月19日放映の「ブラタモリ・天城越え」・・・

 「ブラタモリ」、僕は大好きで、毎週楽しみにしている!

 特に、タモリさんの「地質学・岩石学・地域学」の造詣と洞察力はものすごいと、
 驚嘆、脱帽している・・・

 しかし、今日の「ブラタモリ」には「歴史観不在」を感じ、残念でならない。

 番組一番の見せどころは、それまで天下の難所であった天城峠の下をくぐる
 「旧天城トンネル」(天城山隧道)貫通の秘話であった。

 このトンネルは、川端康成の『伊豆の踊子』や松本清張の『天城越え』にも
 登場する有名なトンネルである。

 完成は明治38年、工事期間は4年。

 ここで、僕は「日露戦争」と関係があるな、と直感した。

 しかし、NHKは、「日露戦争」の「に」の字も出さずに、「表玄関と浦玄関」
 の話で終始させてしまった。

 「表玄関」である「トンネル北側」は見栄えもよく、長持ちして、風化しない
 「玄武岩」を使っているが、「裏玄関」の「トンネル南側」は、付近から採れる
 風化すると、ぼろぼろにかけて来る「緑色凝灰岩」が使われている。

 トンネルを通して、東海道方面に出やすいように願った「下田地域」の住民は、
 工事費の60%を払わされたため、自分たち側の「トンネル南側」を安く、
 天城峠付近で採掘される「緑色凝灰岩」で仕上げた、という落しどころに
 なっていた。

 そういう「下田地域」の住民の心根は、よくわかる。

 しかし、ハリス米国公使も駕籠で越えた天城峠であるが、江戸時代、幕府は、
 下田に「下田奉行所」を置いて、沖合いを通過する千石船を監視していた。

 「入り鉄砲と出おんな」という幕府が諸大名を取り締まった交通違反法令は、
 箱根の関所では有名であるが、実は、下田奉行所も、千石船の船底に「鉄砲」
 のたぐいが隠され、江戸に運びこまれることを非常に警戒したのである。
 
 1853年に来日したロシアのプチャーチンは最初長崎に来て、下田に回航し
 てほしいと、長崎奉行所により要請された。

 しかし、米国のペリー提督は、下田を飛ばして、三浦半島の浦賀に来航した。

 驚いた幕府は翌年「日米和親条約」を締結したが、この時の開港場は下田・
 長崎であった。ハリス公使は1858年の「日米修好通商条約」まで、
 ここに滞在した。つまり、幕府は、従来の「下田で江戸湾(東京湾)に入る 
 諸船を監視する」という基本原則を守ったのである。

 以上のことから、下田は、江戸幕府の天領(直轄支配地)であり、色んな
 面で優遇されていたはずである。しかし、1859年に開港場と奉行所が
 閉鎖されると、急激に「陸の孤島」と化し、住民の不便さが増して行った。

 そこから、下田は、もう一度復活する。

 その復活を成し遂げた「資源」とは、「伊豆石」という頑丈で風化しない
 「玄武岩」であった。

 この石は、江戸城築城の時にも、海路、江戸湾にまで運搬されている。

 『世界百科大事典』(平凡社)
 「下田(市)の周辺は、江戸城の築城に用いられた伊豆石の産地で、
 幕末には品川の台場に使われるなど大正期まで下田の主要産業であった」

 この旧天城トンネルが完成したのは、明治38年で、
 工事期間は4年であったという。

 計画期間を入れると、ロシアが旅順・大連を租借した時期とぴったり
 重なって来る。租借は明治31年だからである。このころ、

 日本は、脅威のロシア海軍に対する防衛のため、東京湾に「海堡」を
 築いていた。

 『日本の城』(理工学社)
 「明治政府は東京湾の浦賀水道に人工島を三基築いて湾内の東京・横浜・
 横須賀等を防御する要塞をつくった。富津岬から水走沖合いの間の三基の
 要塞のうち中央が第二海保で、明治22年起工、大正3年に竣工、
 世界最大の海堡であった」

 つまり、日露戦争の日本海海戦まで、「伊豆石」は、海堡や海岸砲台に
 優先して使われていて、下田地域の住民たちは、それに対する遠慮もあり、
 自分側の「トンネル南側」には緑色凝灰岩を使ったようなのだ。

 旧天城トンネルは、もちろん住民たちのためでもあった(海が荒れている時)
 が、軍事の目的もあったに違いない。

 日本海軍より、ロシア海軍の方がはるかに優勢であり、もし戦争となれば、
 陸の孤島下田は占領までは行かないだろうが、封鎖される危険性はある。
 その時、静岡の歩兵第34連隊の陸路による出動は必須である!
 というような見方はされたはずである。

 そのためには、トンネルが必要だということから、
 明治34年に起工された・・・

 日ごろから、陸軍や海軍にお世話になっている産業を持つ下田地域としては、
 工事費の60%を負担することになっても、文句が言えなかったのである。

 NHKは、以上のような話はせずに、ブラタモリ流の「地質学・岩石学」を
 貫き通し、最後は誰もが感動する「表玄関・裏玄関の心根学」に落としこんだ。

 巧妙と言えば、巧妙であるが、「歴史観不在」は、まずいと思う・・・

 

 

 

 
 

 
author:ぷるの飼い主, category:U‐University(大学の語源事典), 22:17
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大学の語源(その54)、頑張れ、新漢字広告シリーズ! でも、「漢字の会意」によるつくり方と「和語の組み合わせ」によるつくり方は違うんだよ・・・
 
 平成30年5月9日(水)の朝日新聞朝刊一面の「小枠広告」から・・・

 リンテック(株)という会社が、「目(モク・め))」を辺(ヘン)とし、
 
 「立(リュウ・たつ)」という漢字を旁(つくり)とした、

 「目+立」という新漢字をつくる広告シリーズを出していた。

 どうも、「めだつ」と読ませるらしい・・・

 というのは、この新漢字の下に、一行、

 「アイキャッチレベルで 商品の存在感をアップ」

 というボディコピーが添えられていたからである。しかし、

 前回の「夢(ム・ゆめ)」の「夕(ユウ・目の変化で暗いを意味する)」
 を「創(ソウ・つくる)」にした新漢字に感じるほどのインパクトは、
 残念ながら感じなかった。

 それは、「目(モク・め)」という漢字そのものが、「目立つ」漢字
 だからなのである。

 「目(モク・め)」は象形文字の代表的な漢字のひとつと言われている。

 象形文字は、「目(モク)の横一」と書いていた。

 それが立てられて「目(モク)」という漢字になったのであり、
 「目(モク・め)」そのものに「目立つ」という意味があったのである。

 だから、「目+立」とう新漢字は、「W(ダブル)目立つ」となってしまう。

 さらに、「サンズイ+目(モク)」で会意させた「泪(ルイ」も、

 「サンズイ+立(リュウ)」で会意させた「泣」(キュウ)も、

 「泣く」を意味する漢字となる。

 「目(め)」から出る「水(みず)」は「なみだ」だから当然。

 「目」と「立」を合せると、「号泣」となるような感じになってしまう・・・

 新漢字の「目+立」(めだつ)は、和語の「め」と「たつ」の組み合わせ
 による熟語であり、漢字の「会意」によるつくり方は違うのである。

 漢字を改変して「新漢字」をつくるのだから、「漢字のルール」に
 従う必要はあるかもしれないと、ちょっと気になる・・・

 僕が「目立つ」という新漢字をつくるとしたら、

 「目+目」としたかった、なー!

 ・「一目(イチモク)を置かせる」

 ・「客の「目」が集まって、衆目一致するところとなる」

 さらに面白い「新漢字広告シリーズ」を、大いに期待したい!


 

 



 

 
author:ぷるの飼い主, category:U‐University(大学の語源事典), 13:31
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